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ピオリア()は、アメリカ合衆国イリノイ州ピオリア郡でイリノイ川に沿う最大の都市であり、同郡の郡庁所在地である。ピオリアの名前はアメリカ・インディアンのピオリア族に因むものである。2000年国勢調査での人口は112,936人で、イリノイ州第5位だったが、2010年には115,007人となって、州内第7位になっていた〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年4月5日閲覧〕。ピオリア都市圏としては2008年の人口は372,487人となっており、シカゴ都市圏、セントルイス都市圏のメトロ・イースト部に続いて州内第3位だった。 ピオリアはその人口動態や中西部文化の主流と認識されていることで、アメリカの平均的都市の代表として有名である。旅回りボードビル芸人の間では、ピオリアで成功したならば、どこでもうまく行くと言われてきた。「ピオリアでうまく行くかい?」という疑問文がアメリカ大衆の主流に訴えるものであるかどうかの隠喩になってきており、新しい商品、サービスおよび世論調査では市場調査の場所として使われることが多い。2008年以来の住宅市場危機において、全米のどの市場と比較してもピオリアの住宅ストックがほどほどだったので、なんとか危機を乗り切っている。 現在オバマ政権で運輸長官を務めているレイモンド・ラフッドがピオリアを本拠にしている。 ダウ・ジョーンズ工業株30種平均を構成する会社の1つであるキャタピラー社がピオリアに本社を置いている。 == 歴史 == ピオリアは、17世紀の探検者達がミシシッピ川からイリノイ川にまず分け入ってきたので、イリノイ州では最古クラスの開拓地である。ピオリア市となった土地に最初に入植されたのは、フランス人探検家ラ・サールとアンリ・デ・トンティがクレブキュール砦を建設した1680年のことだった。この砦は後に燃やされて灰燼に帰し、1813年にクラーク砦が建設された。1825年にピオリア郡が創設され、クラーク砦が正式にピオリアと命名された。 1835年3月11日に村として編入された。この自治体には村長がおらず、1835年から1836年までルドルファス・ラウズが村議長を務めていた。最初の警察署長はジョン・B・リシュクであり、1837年に指名された。市制は1845年4月21日に執行され、この時点で村議長の時代が終わり市長制に変わって、初代市長はウィリアム・ヘイルが務めた。 1854年10月16日、ピオリアでエイブラハム・リンカーンが初めて、アメリカ合衆国は奴隷制を制限し、最終的に排除する方向に動くべきであるという立場を公にした。これはカンザス・ネブラスカ法のような歴史的妥協に真っ向から反対するものだった。この演説は恐らく12日前のスプリングフィールドで行ったものと類似しており、その後にはスティーブン・ダグラスの演説があった。リンカーンとダグラスは1858年のリンカー・ダグラス討論で定期的に討論を行うことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピオリア (イリノイ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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